ブラジル日本移民史料館。私の知らない日本の歴史がサンパウロに。

ブラジルの都市サンパウロには、日本人が多く住んでおり、日本人街と言われる場所もあります。

日本から遠く離れた地で、どうして多くの日本人がいるのでしょうか。

それは、今からおよそ100年前に行われた移民政策が大きく関わっています。

今回、サンパウロにあるブラジル日本移民史料館に訪れ、その歴史を学んできました。

ブラジル日本移民資料館とは

ブラジル日本移民資料館は、ブラジルの都市サンパウロにあります。

日本人街であるリベルタージの南側にあり、最寄のメトロ駅「São Joaquim」から5分程です。

◆ブラジル日本移民資料館

施設名:ブラジル日本移民資料館
営業時間:13:30〜17:00
休館日:月曜
ホームページ:http://www.museubunkyo.org.br/jp/
入館料:大人R$ 16,00、学生R$ 8,00 (要 学生証)
アクセス:São Joaquim、徒歩5分
住所:R. São Joaquim, 381 – Liberdade, São Paulo – SP, 01508-001, Brazil

ブラジル移民の始まり

ことの始まりは19世紀後半、ブラジルに大きな変化が起こります。

経済面ではコーヒーがサトウキビ、鉱石にとって代わり、労働面では1888年に奴隷制度が廃止されました。

また、政治面では帝政が崩壊し、1889年に共和国制度が宣言されます。

イギリスに始まった産業資本主義、フランス革命の「自由・平等・博愛」という思想の普及が大きな要素となっています。
これらがサンパウロに生まれつつあった、中産階級の前に立ちはだかります。

奴隷がいなくなったコーヒー園では、主にヨーロッパ人の契約労働者が働くようになりました。

19世紀後半は、イタリア、スペイン、ポルトガルを中心に大量のヨーロッパ移民が入り、労働者が不足することはありませんでした。

しかし、20世紀に入ると、奴隷時代の残存である劣悪な労働環境から、ヨーロッパの国々は、ブラジル向けの移民を制限し始めたのです。

そこで、以前は民族の「白人化」に好ましくないとサンパウロのエリート階級から敬遠されていた日本人と中国人の導入が選択肢ではないか、という案が浮かび上がるのです。

当時は、白人優位の社会で、アフリカから来る黒人、アジアの黄色人(インジオ)は劣等とされていました。

1892年、厳しい論争の末、ブラジルは国として日本人と中国人の移民を受け入れる法案を可決します。

その頃、19世紀後半の日本は、徳川幕府の崩壊(1868年)後、明治政府は主権確保のために、世界の強国を目指し、積極的に近代化を図ります。

工業を興し、西洋の科学と技術の吸収、ヨーロッパまたはアメリカ型の政治の導入を進めます。

一方で公的資源の不足、失業などの内部問題にも直面していました。

1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には国会が設置されます。

1894年〜1895年の日清戦争、1904年〜1905年の日露戦争では、どちらも日本は勝利しましたが、賠償金が得られなかったことなどにより、当時の明治政府は財源不足の解消を農民への重税という形をとりました。

多額の税金を払えなくなった農民は土地を売って、小作農になるか、工場に職を求めまるようになります。

しかし、工場も全ての人を受け入れることはできず、職がない人々の選択肢の一つとして移民が挙がりました。

まずはアメリカに向けて移民を送り出しましたが、19世紀末に近づくにつれて、様々な障害が現れ、北米向け移住が厳しくなってきます。

複数回のブラジル視察の後、1908年に笠戸丸によって初の日本人移民がブラジルに到着します。

初期:日本からのブラジル移民の生活

ブラジルでの最初の日本の移民の生活は、コーヒー農場で始まり、彼らは契約されて働いていました。

コーヒー園に到着した途端、移民たちはそれまで目にしたことのない異様な光景に遭遇します。

あてがわれた家屋は不衛生極まりなく、とても住める環境ではありませんでした。いくつかの家はまだ奴隷時代のもので、まさに奴隷小屋そのものでした。

コーヒー園の日課は明け方から夕暮れまで働くという過酷なものでした。

それ以外に、監視人や武器を持った者から強制的に労働を押し付けられることもありました。

つまり、当時の移民は奴隷の代用とさせられていたのです。

そういった生活では女性の役割が重要です。

コーヒー園で一日中働き、夜は夕食と翌日の弁当の準備をします。

食事の準備は日々の大きな課題です。使える食材がそれまで慣れ親しんでいた物と全く異なっていたのです。

パサパサの米、フェイジョン(豆)、干した鱈、塩漬けの魚、干し肉など、日本人の口に合わないものが多かったのです。

そのため女性たちは、毎日の食事に創意工夫が必要でした。

ピッコン、カルルー、マシシを使ったスープやパパイヤの漬物などを作りました。

困難の多い生活環境により、移民の多くが栄養失調や病気に悩まされました。

教育を常に重んじる日本人にとって、もう一つの難題は奥地での子ども教育でした。

コーヒー園には学校というものがなかったのです。

母国に錦を飾ることを目的としていた移民たちにとって、教育は必要不可欠でした。

子どもたちが日本語の読み書きができず、日本文化もほとんど知らないというのでは、日本で非難を受けることになる、と考えたのです。

そこで、まず一番に「子どもたちの学びの場」、そして次に「医療施設」を作りました。

徐々に大きくなり、日本人の村となっていくのです。

その後、第二次世界大戦中の差別を受けることもありながら、多くの日本人移民は働き者で賢く、
ブラジルの発展に大きく貢献したと言われています。

ブラジル日本移民資料館を訪れて

今回、サンパウロで日本移民の歴史を初めて知りました。

学校で習うのではなく旅先で、その土地で、自分と同じ日本人の歴史を知ることは、新鮮でした。

サンパウロには、ジャパンタウンと呼ばれる場所や、日本文化を感じられるところが多くあります。

それは、昔の日本からの移民の人々が、過酷な環境の中でも強く、賢く、生きた証なんだと思います。

この歴史を知って、日本人であることを誇りに思います。

来れて本当によかったです。

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